「ホルバイン」イギリス宮廷の画家

ハンス・ホルバインは、ドイツの有名な画家の息子であり、スイスで画家として働いていました。

宗教改革の混乱が起こると、1532年に仕事を求めてイギリスに渡ります。

最初にロンドンに滞在した時は、偉大な政治家でもあったサー・トーマス・モアを中心とする人々のあいだで過ごしました。

一時、妻や家族のいるスイスに帰ったのち再びイギリスに戻り、1543年ペストで死ぬまでそこを本拠地として活動します。

略歴

  • 1497年ころ 南ドイツ、アウグスブルクに生まれる
  • 1519年 エルンスト・ビンゼンシュトックと結婚
  • 1526年 初めてのイギリス訪問。 トマス・モアに紹介される
  • 1528年 バーゼルに帰る
  • 1532年 再びロンドンへ
  • 1533年 「大使たち」制作
  • 1534年 ヘンリー8世、英国国教会の首長となる。 トマス・モア投獄 「トマス・クロムウェルの肖像」制作
  • 1537年 国王の画家に任命される
  • 1543年 ペストのためロンドンで死亡

 

「ホルバイン」の幼少期

ハンス・ホルバイン(子)の生涯については、ごくわずかなことしかわかっていません。

ホルバインは、1497年または98年に南ドイツのアウグスブルクで生まれました。

同名の父ハンス・ホルバインも才能に恵まれた画家で、すでに高い名声を得ていました。

息子のハンスとその兄アンブロジウスは父親の工房で教育を受け、1514年に画家ハンス・ヘルプスターのもとに弟子入りするため、スイスのバーゼルに送りだされた。

ハンス・ホルバイン「自画像」

バーゼルでホルバインは、出版業者フローベンのための仕事もすることになり、本の挿絵やデジデリウス・エラスムスの著書「痴愚神礼讃」の飾り縁を描きます。

このきわめて重要な仕事によって、彼は思想家エラスムスを中心とするバーゼルの人文主義者たちを知ることになるのです。

 

人文主義者

人文主義たちは、知的追求、可能性、人間の幸福こそ最も重要なものと考えていました。

中世のキリスト教が、人間の現世の存在を取るに足らないものと教えたのに対して、人文主義者は人間の努力にこそ価値があると信じました。

彼らのその考え方の根拠は、古代ギリシャ、ローマの文学や哲学に見いだしたものでした。

ホルバインはしだいに、何人かの北方の人文主義者たち(特にエラスムス)と親しくなっていったようです。

「エラスムスの肖像」 1532年

1532年にホルバインが描いたエラスムスの肖像、。

エラスムスの肖像は人文主義運動の指導的な役割を果たし、ホルバインの最大の賞賛者の1人となった。

 

画家として歩み始めたころのデザインや、装飾図にみられる洗礼された古典的細部には、ホルバイン独自の人文主義的関心が反映されています。

1517年と1519年に、ホルバインはスイスのルツェルンを訪れ、市の行政長官の邸宅に見事なだまし絵風の装飾を施して、1518年のことと思われますがイタリアへの短い旅をしています。

ホルバインは、イタリアの画家アンドレ・マンティーニャやレオナルド・ダ・ヴィンチの作品に深い感銘を受ました。

バーゼルに戻るとまもなく彼は、優れた才能をもつ画家として頭角を現し、巨大な一連のフレスコ画から、肖像画、祭壇画、ステンドグラスのデザインまで次々に手がけて行きます。

 

「ホルバイン」の結婚

1519年にホルバインは画家組合に加入し、すぐに会計係の役職を得ます。

また、このころ皮なめし業者の寡婦で息子を1人もつエルンスベト・ビンゼンシュトックという女性と結婚しました。

彼らのあいだには2人の息子と2人の娘が生まれ、息子たちは金細工師になっています。

「マリアーの聖母」 1526年~30年

ヤーコプ・マリアーは2人の息子(聖母の左側に彼と一緒に描かれている)が幼くして死んだ年に、この祭壇画を依頼したと思われる。

反対側にひざまずいているのはマイアーの娘アナ、妻のドロア、それに死んだ最初の妻マクダレーン・バール(ドロテアのうしろに見える)である。

ホルバインの愛人マクタレーナ・オッフェンブルクが聖母のモデルとなったと考えられる。

この絵はドイツとイタリアの両方の特徴を備えている。

冷たい写実主義と線の細密さは、ドイツの伝統にあるもので、左右相称的な「慈悲の聖母」の構図、古典的なモチーフ、聖母の柔和な顔つきなどはイタリア・ルネサンス絵画を思わせる。

彼はまた、マグダレーナ・オッフェンブルクという愛人をもっていたと考えられており、彼はこの女性にふさわしいライスの扮装をさせて絵を描いている。(ライスとはギリシャの伝説的な画家アペレスの愛人)

マグダレーナはまた、あまりふさわしくない「マリアーの聖母」のモデルもつとめたようです。

驚くほど短い間に、ホルバインは北方人文主義運動の最も重要な画家となり、エラスムスを描いた3枚の肖像画や、反教権を示した木版の挿絵「死の舞踏」の連作を手がけています。

1524年に彼はフランスを訪れ、芸術的視野を広大しますが、2年後宗教改革の激しい嵐によって、バーゼルの宗教画は突如制作停止となり、ホルバインはよそで仕事を探さなければならなくなります・・・・

 

トマス・モアへの紹介

エラスムスからサー・トマス・モアやウォーラム大主教らへの紹介状を持ったホルバインは、エラスムスの言葉によれば「天使(金貨)をつかまえに」イギリスに渡った。

ロンドンではモアに歓迎され、この時の残りの期間はずっとチェルシーのモアの家に滞在したと考えられます。

ヘンリー8世はまだ芸術庇護の大計画を始めていませんでした。

このときは、ホルバインは王のために働いてはいませんが、王に出会ってはいたと思われます。

ヘンリー8世は当時、ボートでテムズ川を下り、何の予告もなしに親友モアの家を訪れることがありました。

そのころモアは、大きな政治的影響力をもつ地位を得つつあり、王はモアの友情と助言を頼りにしており、まもなくモアは大法官となるのでした。

こうしてホルバインは、イギリスの政治と知的原動力の中心に飛び込んで、チャンスを最大限に利用しました。

1528年、ホルバインはバーゼルに帰国。

「妻エルスベト・ビンゼンシュトックと2人の子供」 1528年

1519年に結婚したホルバインの妻エルスベト・ビンゼンシュトックと、2人の子供、フィリップとカタリーネ。

彼はバーゼルに帰った1528年にこの絵を描いた。

というのは、ホルバインは2年間に限った出国を認められていて、それ以上イギリスにとどまるとバーゼルの市民権を失うおそれがあったからです。

また、市もライン川を見下ろす2軒の家を買い、そこに落ち着いて市庁舎のためのフレスコ画を描き始ました。

この時期には、妻と二人の子供を心をこもった親しみの感じられる肖像画に描いています。

 

 

「ホルバイン」ロンドンに戻る

ルターの宗教改革の波が押し寄せ、バーゼルの状況は急速に悪くなります。

エラスムスは逃げ出し、聖像破壊主義者たちは市の宗教絵画を一日のうちにほとんどすべて打ち壊しました。

状況はあらゆる種類の美術にとってきわめて不利であり、ホルバインは宗教改革の基本的な考え方は支持しましたが、ロンドンに戻る決意をします。

「サー・トマス・モアの肖像」1527年

このホルバインの友人、身元引受人、そしてパトロンの素晴らしい肖像は40代のモアを示し、王の評議員であることうを表すSS頸章をつけている。

息をのむほど正確な細部、堂々たる構図、飾らない威厳は、この人物の地位と個性の強さにふさわしいものである。

1532年の終わり近くにロンドンに着き、ここでも事態はきわめて急速に変化していることを知ります。

ウォーラム大主教はすでに死んでおり、トマス・モアはヘンリー8世とアン・ブリーンの結婚を承認することを拒否して、大法官の職を退くことを願い出ていました。

彼は人目をさけてひっそりと暮らすことを求めており、ホルバインは誰か別のパトロンを見つけなければならなかった。

そのパトロンとなっあたのは、ハンザ同盟のロンドン貿易事務所があるスティールヤードのドイツ商人たちでした。

このときホルバインは2人の人物の素晴らしい全身像「大使たち」と、美術愛好家「ゲオルク・ギスツェの肖像」を描きます。

いずれもチーダー王朝の宮廷の注意をひくことを意図したものでした。

 

トマス・モアの処刑

1534年、ホルバインは王の秘書官トマス・クロムウェルの肖像を描いていました。

この年、モアは国王至上権承認の宣誓を拒否し、「いかなる議会も、神が神であってはならないという法律をつくることはできない」と言明した。

いまや英国国教会の首長となった王は、残酷にもモアをロンドン塔に幽閉しました。

彼はさらに1年間そこで苦しい生活を続け、その間、クロムウェルの命令を受けた王のスパイたちはモアの不利になる証拠を集めた。

クロムウェルは冷酷な人間で、このことはホルバインが描いた肖像にも明白に表されていますが、彼はホルバインが得た最も重要なパトロンでした。

その5年後に、彼は王の金庫を修道院から没収した金で満たしただけでなく、かつての国王の名のもとに行われたうちで最大の、美術による宣伝運動を展開しました。

彼がホルバインに与えた最初の仕事の1つは、初の完訳英語版の聖書、「カヴァーデール聖書」の表題ページの木版をデザインすることでした。

「初代エセックス伯・トマス・クロムウェルの肖像」 1532年

クロムウェルはまたたくまにイギリスで最も大きな権力をもつ人物の一人となり、修道院の解体を成し遂げて、ヘンリー8世の富と権力をおおいに増大させた。

しかし、反逆罪のため1540年に処刑された。

これは、ヘンリー8世が主教たちに神の言葉を伝えているところを描いたものです。

1535年7月トマス・モアは処刑され、翌年アン・ブリーンが、ヘンリー8世の妻のうちで最初に断頭台の霧と消えました。

ホルバインは今や廷巨となり、1537年には王の画家に任命された。

ホルバインは画家としては天才ですが、人間としては抜け目がなく、野心家で、冷徹で、無節操だったようです。

 

 

王を描く

1537年、ホルバインは彼にとって最大の仕事を与えられます。

ヘンリー8世とその新しい王妃ジェーン・シーモア、王の両親であるヘンリー7世とヨーク家のエリザベスの記念肖像画を描くことを求められたのです。

これは王の私室の玉座の上の壁を飾るはずのものでしたが、結局、このフレスコ画が完成する前にジェーン・シーモアは死にます。

彼女はヘンリー8世のただ一人の息子を残しました。

彼のフレスコ画が実際にどのような出来栄えだったかはわかっていません。

1698年、小間使いの不注意からホワイトホール宮殿が全焼してしまったからです。

当時のあらゆる文献は、それが畏敬の念を起こさせるものであったことを証言しています。

ホワイトホールの壁画を完成したホルバインは、王の将来の妻となる可能性のある女性たちの肖像を描くという、デリケートな使命をおびて外国に派遣されました。

彼は、ブリュッセルを訪れ、魅力的なデンマークのクリスティーナの肖像を描きました。

これは王をおおいに喜ばせ、上機嫌にさせますが、政治的な交渉がうまくいかず、王は彼女と結婚することはできませんでした。

また、ホルバインはクレーヴのアンの、おもしろみはないが美しい肖像画も描き、王は彼女との結婚を決めた。(ただし、のちに王は彼女をフランドルの雌馬といっています)

1538年9月、ホルバインはもう一度バーゼルの家族のもとに帰ります。

「クレーヴのアンの肖像」 1539年

彼のために歓迎会が催され、市は彼がずっとそこで暮らしてくれることを期待して、年金やその他の特権を与えました。

しかし、ホルバインは長くとどまらず、完全にイギリスに同化したわけではないが、ロンドンはすでに彼の仕事の中心地であると同時に母国となっていました。

晩年のホルバインは王のための絵はそれほど描いていません。

最後の完成作品は、理髪師・外科医組合に特許状を与えるヘンリー8世を描いた大型の絵でした。

ホルバインはまた、外交的任務のため外国に出かけ、王のために働くことは続けていますが、これについてはほとんど何もわかっていません。

 

ペストによる死

ホルバインの人生は、1543年にロンドンで猛威をふるったペストのため、突然終わりを告げます。

その年作成された遺言状によると、彼はロンドンのシティ、セント・アンドリュー・アンダーシャフトの教区民であり、里子に出された2人の私生児がいたことが明らかです。

しかし、ホルバインの輝かしい経歴にもかかわらず、その遺言状には衣服や馬など、小さなもののことしか記されているだけで、資産については何も書かれていませんでした。

実際のところ、彼はいくつか負債を残しました。

ですが、イギリス美術がドイツからきたこの外国人に負ったものの方がはるかに大きい。

ホルバインはその後、何世紀にもわたるイギリス美術の方向性に、大きな影響を及ぼしました。

 

実物そっくりの肖像画

ホルバインの名声は、彼がイギリスでヘンリー8世の治世に描いた見事な肖像画によって表されています。

ホルバインの友人だった偉大な思想家エラスムスがこの画家の描いたトマス・モアとその家族のデッサンを受け取ったときの反応は容易に理解できます。「これはまったくうまくできており、実物よりも実物らしく見える」とエラスムスは書いています。

しかし、ホルバインは最初から肖像画家としてスタートしたわけではなく、父親の工房やバーゼルのハンス・ヘルプスターの工房で訓練を受け、そこで油彩の技術だけでなく、本の挿絵や装飾について学んだ。

ホルバインの初期の絵は主に記念碑的な作品や宗教画で、様式的にはデューラーやグリューネヴァルトの北方美術の伝統を継いでいます。

1520年代後半になると、新しい影響が見られるようになります。

「マリアーの聖母」では、北方美術の特徴である厳しい観察による写実主義と、鋭い線の強調が明らかですが、古典的なモチーフ、穏やかな対称、聖母の顔立ちを和らげるスフマート(ぼかし)の使用などは、イタリアル・ネサンス美術、なかでもレオナルド・ダ・ヴィンチからの影響を示しています。

ホルバインの初期の宗教的な作品の多くは、宗教革命の際の激しい聖像破壊によって失われたと思われます。

この運動はまた、画家の大きな収入源(教会からの依頼)を断ったことで、ホルバインがバーゼルを離れ、仕事を求めてイギリスに行ったのはこのためです。

 

モアとその交友関係

ホルバインはすでにイギリスで、肖像画によって広く名を知られていました。

彼の描くたエラスムスの肖像が、ウォーラム大主教に贈られていたからです。

そして最初のイギリス訪問は(1526~28)は、主としてモアとその友人たちの肖像を描くことに費やされました。

これらの作品は、美術史上モデルに最もよく似た肖像画であり、それ以前にこうしたものを見たことのなかったチューダー朝のモデルたちを驚かせたに違いありません。

ホルバインの絵は、彼の驚くべき素描力のうえに成り立っています。

そして、彼にとって素描は単に絵の準備のためのものではなく、それ自体で完成されたものでした。

 

補助器具

ホルバインはモデルの顔の輪郭をできるだけ速く写すために、何らかの補助器具を使っていたのではないかといわれています。

これも、もしそのようなものを使っていたなら、それはデューラーやレオナルドのような画家が使ったと知られている一種の転写装置だった可能性があります。

これはのぞき穴と板ガラスでできている。

・画家はのぞき穴と板ガラスを通して、じかにモデルを見る。

・描こうとするものの、確実な線をとらえるために、ライフルの照準器をのぞくような方法。

・そして、ガラスの上に油性のクレヨンでモデルの顔の輪郭をなぞる

・次にその輪郭を紙に写し取る。

・絵そのものは木のパネルに描き、ホルバインはグレーのウォッシュを使ってデッサンをそのパネルに移す。

・次に、細心に的確に、徐々に色を塗っていく。

・最初に観察したことを完璧に再現する補助として、色や宝石の細部に関する覚え書きを使うことも少なくなかった。

 

「ホルバイン」の画風の変化

ホルバインは、驚くほど実物通りに描く能力をことさら見せつけるよう努めています。

ドイツの商人「ゲオルク・ギスツェの肖像」では、手で触れることのできるかのような写実性をもつ細やな織りのトルコのラグ(敷物)に、ピンクのビロードの複雑なひだが配されています。

「ゲオルク・ギュスツェの肖像」 1532年

この素晴らしい肖像画で、ホルバインは目移りするほどの物に囲まれたドイツの商人を描いている。

これらの商品の多くは彼の職業と関連がある。

花の入ったみごとな花瓶はギュスツェに特別関係のあるものかもしれないが、おそらくはホルバインが優れた技巧を示すために描いたものであろう。

そしてさらに念を押すかのように、ホルバインは薄いガラスの花瓶とカーネーションの花束を見事な正確さで描き、そのガラスを通して、花のくきやラグの織り糸が見えている。

「ゲオルク・ギスツェの肖像」はまた、モデルの職業を示す多くの小道具が配置されるという点でも、この時期のホルバインの絵の特徴的なものといえます。

こうした絵から3年後ほどのち、ホルバインの肖像画がきわめて劇的に変化します。

構図そのものが単純化になり、青や緑のプレーンな背景の前に人物が配置されて、奥行きのない背景にアクセントをつけるために、しばしば人物の頭部のどちらかの側にラテン語の銘が書かれています。

一般にそれは、日付や人物の年齢えお示し、プレーンな背景は肖像そのものの印象を強めるのに貢献しています。

 

イコンのイメージ

構図の平板さは、ホルバインがヘンリー8世を描いた、あるいはヘンリー8世の求めて制作した半身像の多くがはっきりしていて、そこでは線的なパターンがいっそう強調されています。

たとえば「ヘンリー8世の肖像」では線的なものが目立っていますが、これはより装飾的な目的をもたせるためでしょう。

ヘンリー8世の衣装の華やかな文様や宝石、水平に置かれた腕、そして青い背景からほとんど切り取られたような頭と帽子など、すべてが一体となってイコンのようなイメージを作り出しています。

「ヘンリー8世の肖像」1536~37年

間違いなくホルバインの手になる、王自身をモデルにした唯一の肖像である。

3番目の王妃ジェーン・シーモアの肖像と対をなしていたかもしれない。

このイコンのような像では、体は画面に対して平たく描かれており、装飾が強調されているような像では、体は画面に対して平たく描かれており、装飾が強調されている。

金糸、鎖、ボタンなどは本物の金で描かれている。

これは英国国教会の首長でもある王にふさわしい。

その顔は、9年前に描かれた「サー・トマス・モアの肖像」と同じように個性がはっきりと描き出されていても、絵の印象がまったく異なります。

「サー・トマス・モアの肖像」は1人の人間であり、「ヘンリー8世の肖像」は神のような権威を示す像なのです。

 

 

芸術と宣伝

ホルバインのあらゆる芸術的な腕前を駆使してこのような効果を作り出していますが、何よりも宗教画の約束事を利用しています。

例えば、群像のポーズの取らせ方は、聖者が横に並ぶ聖母像の、標準的なルネサンスの配置を思い出させます。

ホルバインは宗教的単語を政治的単語に置き換え、聖家族を王の家族に変えました。

こうして彼は、チューダー朝の政治的至上性と、ヘンリー8世自身の英国国教会の首長としての、至上性を同時に証明するイメージを作り出すことができた。

その過程でホルバインは、芸術と宣伝とを結びつけたのです。

 

名画「大使たち」

ジャン・ド・ダントヴィユ(左側の人物)が1533年ロンドンで、彼自身とその友人の司教ジョルジュ・ド・セルヴを描いたこの肖像画を依頼しました。

最初の印象は目をみはるような写実主義にありますが、この絵には驚くべき象徴的な意味合いが含まれています。

「大使たち」は、芸術と、時間と、業績と、死との関係を探求し、この絵でホルバインは、時間をある特定の瞬間に凍結させました。

日時計はこれが4月11日の午前10時30分であることを示し、銘は人物たちの年齢を示す。

若い男たちはその力の頂点にあるところが描かれており、さまざまな物は彼らの業績を象徴的に表しています。

しかし、芸術は時間を停止させることができるが、現実の世界では、死を逃れることはできない。

2人の男の足元には、形のいびつなドクロが描かれています。

ドクロは、死すべき運命の象徴なのです。

 

まとめ

ホルバインの肖像画は、16世紀の画家のなかで最も正確に描写されています。

彼の描く正確な線の描写は、現在の写真技術に近く、また、その技巧は当時のお見合いや権威に大きく利用されるまでに発展しています。

神格化された王の肖像を、崇高な精神を感じさせる中世の時代に似た表現と、宗教のイメージに近い効果を発揮しました。

100年後に登場するヴァン・ダイクの時代と違い、この時代は絵具の盛り上げや輪郭線には、顔料のアズライトやマラカイトなどを貴重にしていました。

全体的にバロック時代と違い絵の具が薄かったのです。

ホルバインの、線に細心の注意をして描かれた作品は、ルネサンス時代の美しさを取り入れた新しい表現に成功した傑作と言えます。

・「ホイッスラー」異国のアメリカ人

・「フラ・アンジェリコ」ドミニコ会の修道士

・「デューラー」ドイツのアペレス

・ヤン・ファン・エイク「三連祭壇画」の神秘

・アングル「新古典主義の旗手」

・「ティントレット」一匹狼の巨匠

ABOUTこの記事をかいた人

taesun

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。