マニエリズム画家のうちで最も偉大な、最も洗練された画家の1人と考えられるブロンズィーノは、
「マニエラ」すなわち優雅で人工的な画風の追求に全生涯を捧げました。
彼の師ポントルモはミケランジェロやラファエロに対するブロンズィーノの過大なオマージュ(敬意)を助長した。
ブロンズィーノは急速に名をあげ、コジモ・デ・メディチお気に入りの画家になる。
ブロンズィーノは貧しい家の生まれだったが、華麗で様式ばった16世紀の宮廷生活にも楽々と溶け込んだ。
現在ブロンズィーノの名が最もよく記憶されているのは、彼がコジモの庇護のもと、優れた素描家の精密さをもって描いた、冷たい彫刻のような肖像画によってである。
彼はデザイン・アカデミーの会長に選出されたのち、1572年にこの世を去った。
幼少期
同時代人や後世の人々にブロンズィーノと呼ばれるアーニョロ・ディ・コジモ・マリアーノは、1503年11月17日、
フィレンツェの城壁のすぐ外にある貧しい郊外の村モンティチェリで生まれました。
ブロンズィーノ(青銅の)という通称の由来は定かではないが、
彼の肌の色が浅黒かったことをいっているのかもしれない。
16世紀の評論家ラファエロ・ボルギー二はブロンズィーノの両親のことを
「誠実でつつましく、貧しかった」と書いているが、
実際のところ彼の素性や幼いころのことは何一つ知られていません。
ブロンズィーノと40年にもわたって親交をもち、情報と挿話を豊富に織り込んだ
「美術家列伝」を著したジョルジョ・ヴァザーリでさえブロンズィーノの生まれについてあまり知らず、
彼が最初に弟子入りした画家については何も書いていない。
11歳のころ、ブロンズィーノはラファエリーノ・デル・ガルボのアトリエに移る。
彼は凡庸な画家だったが、きわめて優れた職人であり、この少年に絵の技術の初歩をしっかりと教え込みました。
しかし、ブロンズィーノがラファエリーノのところにいたのはごく短期間にすぎなかった。
1年ほどのち、はるかに個性的で刺激に満ちた画家ヤコポ・カルッチのもとに移ったからです。
彼は生まれた村の名前からポントルモと呼ばれていました。
ポントルモ自身まだきわめて若く、ブロンズィーノと9歳しか違わなかったが、
すばらしいい早咲きの画家で、すでにフィレンツェの一流画家として頭角を現していた。
ヴァザーリは、ポントルモがわずか19歳でミケランジェロから絶賛されたことを記しています。
ブロンズィーノはポントルモのお気に入りの弟子となった。
師は彼を「息子のように」愛したとヴァザーリは言っており、事実上彼を自分の養子としました。
この愛情ははっきりと報いられ、1557年にポントルモが死んだとき、
優れた詩人でもあったブロンズィーノは深い悲しみのなかで何編かのソネット(14行の叙事詩)を書いた。
ポントルモは作品「エジプトのヨセフ」のなかに人の心に訴えかける少年ブロンズィーノの肖像を描いており、
ヴァザーリはこれを「すばらしい生きているかのような、美しい人物像」と述べている。
ブロンズィーノとポントルモの交際は正式の徒弟期間が終わったのちも長く続きまいた。
後年、2人が仕事のうえで強力することもしばしばあり、ポントルモの死によって未完のまま残された
フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂の数点のフレスコ画はブロンズィーノが完成させた。
初期の作品
当然のことながら、ポントルモはブロンズィーノの画風の形成に大きな影響を及ぼしました。
彼の初期の作品のなかには、ポントルモの絵ときわめてよく似ていて、
ヴァザーリでさえ見分けることがむずかしいものがある。
特に、1520年代後半にフィレンツェのサンタ・フェリ―チタ聖堂のカポーニ礼拝堂の装飾を
2人で仕上げたケースではこれが著しい。
この装飾には4人の福音書記者の円形画が含まれ、ヴァザーリは「美術家列伝」のなかのある箇所で、
そのうちの1点をブロンズィーノの作といい、別の箇所では2点をブロンズィーノの作としている。
秘密主義のポントルモは「目隠しをつくって3年間も礼拝堂を閉ざしていた」ので、
ヴァザーリの記述があやふやなのもやむをえない。
今日なお、この礼拝堂の装飾のうち、ブロンズィーノの手になる部分がどれであるかについて
学者のあいだで議論がかわされている。
ポントルモとは違って、ブロンズィーノは早熟の画家ではなかった。
彼は初期の作であることがはっきりしている作品で、今日まで残っているものはきわめて少ない。
彼の最も初期の重要な作品とヴァザーリが記す、フィレンツェに近いチェルト―ザ・デル・ガルッツォの
ドア上の2点の装飾は傷みがひどく、修復されてはいるが、ごく平凡なものにすぎない。
ブロンズィーノはフィレンツェで発生したペストから逃げるため、
1523年にポントルモと一緒にそのチェルト―ザ(カルトゥジオ修道会の修道院)に行っていました。
そこでヴァザーリと知り合い、以後、生涯の友となったのです。
1525年にブロンズィーノはフィレンツェに戻ります。
すでにポントルモの助手をするだけでなく、自らも肖像画家としての地歩を築きはじめていたと思われる。
だが、制作年が記された、あるいは裏づけられる作品がない出来ないため、
1520年代後半の彼の成長ぶりをたどることは出来ない。
しかし1530年には、フィレンツェから130㎞ほど離れたアドリア海沿岸の都市ペーサロの宮殿で
働いてほしいという招請を受け入れ、彼の画家としての経歴は大きく前進することになります。
(このような招請は、すでに彼自身がある程度の名声を得ていたことを意味する)。
この町は1508年にウルビーノ公国を引き継いだデラ・ロヴェーレ家が支配しており、ペーサロをその首都としていた。
ペーサロの宮殿で
フィレンツェから見れば田舎だったが、
ペーサロはブロンズィーノに初めて宮廷生活を味あわせてくれました。
彼は多くの画家たちと一緒に、ヴィラ・インぺリアーレの装飾の仕事にあたった。
そこで彼が何を描いたかはヴァザーリにもはっきりせず
(彼がブロンズィーノとごく親しかったことを考えると驚くべきことだ)、
ブロンズィーノがどれだけ重要な貢献をしたのかを評価することはできない。
しかし、1532年に描かれたギドバルド・デラ・ロヴェーレの肖像はいまも残っており、
これは制作年のわかっているブロンズィーノの最初の重要な作品となっている。
この絵はみごとに形式をふまえ、洗練されたもので、
のちに貴族社会のパトロンたちが高く評価したブロンズィーノの特徴をはっきりと示しています。
同じ年、ブロンズィーノはポントルモによって、フィレンツェに呼び戻されまる。
今日ではフィレンツェの郊外となっているポッジオ・ア・カイアーノにあった
メディチ家の別荘の装飾を手助けするためでした。
このときも何人かの画家が仕事に参加しており、
現存するもののなかでどれがブロンズィーノによるものか見分けることはできません。
しかし、どれを描いたにせよ、彼がそれによって大きな影響力をもつメディチ家のパトロンたちに自分を売り込み、
画家としての地位を高めたことは疑いない。
さらに1530年代に、彼はカレッジとカステッロの2つのメディチ家の別荘で何点かのフレスコ画を描いたが、
双方にあった作品とも完全に失われてしまったのです。
このように名高いメディチ家の装飾の仕事をしていたにもかかわらず、
ブロンズィーノが1530年代にフィレンツェで一流画家として名をあげたのは肖像画家としてでした。
彼は特に文学者たちの人気を集め、自身も詩人であったことから、彼らに特別な親近感を感じていたに違いない。
1530年代半ばごろの作品と思われるウゴリーノ・マルテリの肖像は、
そうした文学者の肖像として有名なものの1つです。
神経質そうな若い作家が、ブロンズィーノの好みの小道具である書物に手を置いた姿で描かれています。
ブロンズィーノの詩が出版される前の年、コジモ・ディ・メディチ公はいとこのアレッサンドロが
殺されたためフィレンツェの権力を握った。
当時のある人は「コジモは生れながらにして壮大さに対する傾向と、
あらゆるものを美化する傾向の素晴らしく強い人でした。
彼は文学者を愛し、援助し、すべての洗錬された創造的精神の持ち主たち、
特に彫刻家や画家を歓待いいた」と書かれている。
ブロンズィーノは1539年、コジモがトレドのエレオノーラと結婚したとき、
祝祭のための装飾を制作する画家の1人に選ばれ、公の目にとまることになりました。
やがて彼は公のお気に入りの画家となり、2人の関係は30年間にわたって続きます。
ブロンズィーノはコジモのことを「最も寛大な君主」と言っています。
多忙な10年
1540年はブロンズィーノにとって、生涯で最も活動的な10年でした。
メディチ家の家族や宮廷の人々の肖像画を数多く描き、
2つの最も素晴らしい装飾の仕事に着手する。
これは完成までに長い年月を要することになった。
その2つとは、パラッツォ・ヴェッキオのトレドのエレオノーラの礼拝堂のフレスコ画と、
同じくパラッツォ・ヴェッキオのための「ヨセフの物語」を表した一連のタピスリーのデザインの仕事でした。
コジモは1545年にフィレンツェにタピスリー工場を建てた。
ヨセフのシリーズはおそらく、彼の治世を表すために企画されたと思われる。
この連作は20枚のタピスリーからなり、
ローマのシスティーナ礼拝堂のためにラファエロが制作した有名なタピスリー連作以来、
最も重要なシリーズである。
1548年、ブロンズィーノはローマを訪れました。
そこに滞在中、何枚か肖像を描いたが、この訪問のおもな目的は、
タピスリーのデザインを手伝う助手を見つけることにあった。
彼はひどく働きすぎの状態だったのです。
そして、まったく無名のラファエリーノ・デル・コレを雇い入れ、
彼は1548年5月にフィレンツェにやってきてタピスリーの仕事は1553年まで続きました。
ローマでは、ミケランジェロの作品(「最後の審判」は1541年に完成していた)がブロンズィーノに強い印象を与えた。
巨匠の描く堂々たる人物像の画風(当時これに心を動かされなかった画家はほとんどいない)が、
後期の絵にしだいに大きな影響を及ぼしていきました。
彼はミケランジェロを「自然の驚異」と言っています。
ミケランジェロの影響はブロンズィーノの宗教的作品に最も強く現れる。
ローマから戻ってまもなく、彼は最初の重要な公的注文で宗教画の依頼を受けました。
サンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂の「復活」です。
彼はこの作品を18ヶ月で完成させることを約束したが、ひじょうに多忙だったため、
実際に絵を引き渡したのは、4年後の1552年でした。
タピスリーの下絵の仕事と、トレドのエレオノーラを描くためのピサに出かけたとき
(彼女は当時ピサに滞在していた)以外は、教会の祭壇画制作に集中した。
このころから、宗教画7が彼の作品のなかで重要性を増し始め、肖像画は重要性が減ってくる。
1557年、ブロンズィーノは愛する師ポントルモの死にあい、深い悲しみに沈みます。
しかし彼は、人生における奇妙なバランスによって慰めを得た。
ポントルモが彼を養子にしたように、彼は1555年に死んだ友人クリストファロ・アローリの家族の面倒をみていた。
ブロンズィーノの養子となったアレッサンドロ・アローリは彼の弟子となったており、やがて画家として名をあげていく。
栄光の晩年
ブロンズィーノの晩年の作品は、一般に成熟期の作品とは比較にならない。
彼は依然として女流詩人のラウラ・バッフェリのような自分の関心をひくモデルに対しては
みごとな反応を示すことができたが、多くの絵では、
1540年代から50年代初めの努力んため創造力が枯渇してしまったかのように、
ただ習慣的に絵を描いているだけのようにみえます。
1560年代に入るころには、自らの年齢を感じていたに違いない。
1564年には宮廷画家のポストも解かれ(それでもコジモは彼に仕事を依頼していたり、
1565年にコジモ・デ・メディチの後継者フランチェスコ・デ・メディチとオーストリアの
ヨアンナとの結婚を祝う装飾をデザインする画家の1人となったときも、
彼は公例のため、実際の仕事は弟子たちにさせてもよいという特別なただし書きがつけられます。
ブロンズィーノは多くの弟子をかかえ、仲間の芸術家あちの人望もあったようです。
彼は、大彫刻家で金細工師のベンヴェヌート・チェリーニのつくった有名なペルセウスの像に
インスピレーションを得てソネットを書き、お返しにチェリーニはブロンズィーノについて好意的な言葉を述べている。
晩年には、アカデミア・デル・ディゼーニョ(デザイン・アカデミー)の仕事にほとんどの時間を費やました。
これは1563年に設立された(彼も設立者の1人だった)最初の正規の芸術学校で、
その目的の1つは芸術家の知的、社会的地位を保証することにあり、
実際的な訓練と同時に理論的学問にも力を入れた。
ミケランジェロのが初代校長で、この巨匠の葬儀のときにブロンズィーノが絵画界を
代表する2人の人物の1人となったことは、彼の仲間の芸術家たちから尊敬されているしるしとして、
アカデミーの「会長」という名誉あるポストに選ばれた。
しかし、彼はこの栄誉をほとんど楽しむことなく、1572年11月23日、アローリの家でわずかのあいだ病んだのち。
69歳で世を去った。
遺体はサン・クリストフォロ聖堂に埋葬された。
冷たい優美さ
ブロンズィーノは今日、もっぱら肖像画によって広く名を知られており、
その肖像画は16世紀の絵画のなかでも最も記憶すべきものとなっている。
われわれはこれらの作品を通して、ブロンズィーノの見たコジモ・デ・メディチの宮廷を、
またヴァン・ダイクの目を通してチャールズ1世の宮廷を見ることができるのと同様である。
しかし、、当時のブロンズィーノの名声は、肖像画家としてだけにとどまらず、
そのほかの分野でも高く評価されていた。
肖像画以外の作品の多くが忘れ去られ、あるいは少なくとも専門家の研究対象に限られてしまったのは、
1つにはたまたま肖像画が多く残ったこと、また1つには絵に対する好みの変化によるものだろう。
失われた宝
ブロンズィーノの世俗的な装飾的作品の多くは、かなり厳しい運命に見舞われることになった。
たとえば、カレッジやカステッロのメディチ家の別荘にあった彼のフレスコ画は、
あとかたもなく消し失せてしまったし、貴人の結婚式やミケランジェロの葬儀などの祭につくられた街路の装飾は、
その性格上、取り壊される運命にあった。
フランチェスコ・デ・メディチの結婚式のための制作されたブロンズィーノの装飾について、
フランチェスコは次のように描いている。
「ブロンズィーノは3点の大きな絵を描き、これはカライア橋に飾られた。
ヒュメンの婚礼のいくつかの物語が美しく描かれ、とても単なる祭りの装飾とは考えられず、
名誉ある場所に掛けられてしかるべきと思われた。
それほどみごとに仕上げられ、細心の注意をもって計画されたものだった」。
今日では、下絵のデッサンが少しばかり残っているにすぎない。
ブロンズィーノの宗教画は、生き残るという点ではまだ恵まれていたが、
彼自身が高く評価していた特質ゆえに人々に好まれなくなった。
つまり、それらの絵は、最高の手本と考えられた他の画家たちの作品を意識して描いており、
芸術的独創性という今日の理想とはまったく一致しなくなったという理由がある。
もともとは誠実な敬意を表すために描かれたものが、
今日では人によっては恥知らずな盗作のように思われるようになっている。
ブロンズィーノの時代に広く見られた芸術様式は、マニエリズムと呼ばれるようになりました。
これは、「マニエラ」(スタイルあるいは流行を表すヴァザーリの言葉)の意識的な追求を意味し、
ルネッサンス期の大画家たち、特に最高の画家とされたミケランジェロとラファエロを
直接手本とするものだったからです。
長い間、批評家あちはこのような様式化された方法での制作は、
プラスの面よりもマイナス面のほうが多いと考えてきました。
今世紀にいたるまで、マニエリズムという語は「随落する」と同じ意味合いでもちいられることが多かった。
今日、素晴らしいマニエリズム美術の特質「光と色の素晴らしい効果」、
「優れたデッサン力」、「人の心を不安にするかのような感情の激しさ」は再評価されています。
しかし、ブロンズィーノの宗教画は、独自の芸術を極めたというより、
この様式が悪名を買う原因となったアカデミックな実践と思われることがきわめて多い。
特に彼は「聖ロレンツォの殉教」は、手本としたものが過激すぎるほど組み合わされた一例である。
ほとんどすべての人物(きわめて不合理にねじれた姿勢のものもみられる)が
ミケランジェロやラファエロの作品に由来しているが、そこに真の感情は認められない。
形式美
ブロンズィーノの肖像画は、今日ではひじょうにつくられた感じがするでしょうが、この特質は彼の作品では適切に思える。
モデルの多くは宮廷社会の人々でした。
宮廷は元来伝統と形式の場であり、描かれているものと、その描き方とのあいだに不釣り合いはない。
ヴァザーリはブロンズィーノの肖像画の自然主義を賞賛している。
しかし彼はブロンズィーノが人物を本物のように描いているというのであなく、
衣裳やアクセサリ―のすばらしさに見られるように、
最も微細な部分をとらえる驚くべき能力のことをいっている。
しばしばいわれることが、彼の描く人物は美しくつくられた蝋人形のように見える。
たとえば、有名なドレドのエレオノーラとその息子の肖像では、
みごとに描かれたドレスの装飾は活気が感じられるが、肉体の存在はまったく感じさせず、
彼女の左手はミイラの手のように見える。
メディチ家の人々にとってこのような肖像画は、子孫に残す家族の史料であり、
記録であると同時に、一種の宣伝材料でした。
コジモは自由に画家たちのパトロンになったが、たいていは心の内の美的な喜び以外の目的をもっており、
一族のほかの人々のように芸術に情熱的な関心をもっていたわけではない。
実際、彼は肖像を描かせてほしいというティントレットの申し入れを拒否したこともあるといわれる。
すでにブロンズィーノの手になる「公認の」コジモ像があり、それを繰り返して描くか、
必要に応じて手直しすることができる」からであった。
コジモは公的な肖像画や国家的行事のための装飾にブロンズィーノの才能を利用すると同時に、
一度ならず彼の絵を外交的な贈り物として用いています。
「ヴィーナスの寓意画」はフランスのフランソワ1世に、
「十字架降下」はグランヴェル枢機卿(皇帝カール5世やスペインのフェリペ2世に
使えた重要な外交官)に送られました。
2人ともよく知られた美術愛好家だった。
特権のある地位
ブロンズィーノは、閉じこもりきりではあるが十分に保護された環境にあって、
申し分なく幸せであったように思われます。
1551年に彼が書いた手紙からは、自分の置かれた状況に有頂天のようすがうかがえる。
「私はピサにいる。絶えずこの最も高貴な君主一家とともに過ごし、並ぶもののない優れた、
また善良な君主のこの上ない好意につつまれていることを嬉しく思う。
比類なく、輝かんばかりのお妃と、天使のような子供たちは、まさに君主にふさわしい。
また彼は善良さに満ちあふれたことのような貴婦人と、賢く、美しく、
よくしつけられたこのような子供たちにふさわしい夫であり、父親である」。
しかし、ブロンズィーノの肖像画には神々しさや甘さはほとんどない。
彼が情熱をこめて表現することは彼にとって重要ではなかったからです。
彼が優れた腕を発揮したのは、みごとな素描家、華やかな色彩画家、
非の打ちどころなく仕上げられた画面を作り出す高度な技巧をもつテクニシャンとしてだった。
彼はモデルの心や魂は示さなかったかもしれないが、その肖像画は彼の多くの宗教画と異なり、
どれも大胆に構想され、明確に思考され、完璧に制作されています。
デザインの明快さと技術の正確さという点でほかに並ぶものはほとんどない。
名画の構成「キューピッドの武器を奪うヴィーナス」
この絵のテーマはヴィーナスの勝利であり、彼女は、
その比類ない美しさを認めたパリスが与えた金色のリンゴを手にしている。
キューピッドが接吻にうっとりするあいだに彼女はその矢を奪い、彼の力を失わせる。
緑色の服を着た半人半獣の少女は快楽を表す。
彼女は一方の手にミツバチの巣、もう一方の手にハチの針を持つ。
キューピッドはいま愛の甘さを味わっているが、まもなくその傷みを感じるであろう。
愚かさを表すプット(子供)は抱き合う2人にバラの花を投げようとしており、嫉妬は左手に隠れ、ロマンティックな物語を壊そうとしている。
この絵のあからさまなエロティシズムは、後代の所有者たちの不興を買い、彼らはしかるべき改ざんを命じました。
ひときわ目につくキューピッドの尻はギンバイカの小枝で隠され、ヴィーナスはつつましく腰布をつけられた。
かすかに見えるヴィーナスの口元の歯とエロティックな舌は塗りつぶされていた。
その後、1958年にロンドン・ナショナル・ギャラリーが行った修復で、これらの描き加えられた部分が取り除かれた。
まとめ
ルネッサンス後期の肖像画の巨匠ブロンズィ―ノは、
様式的で細密な技法を用いて、優雅な人物たちに冷たいエナメルのような美しさを与えました。
彼はこの技法によって最もよく名前を知られていた巨匠であり、
18世紀~19世紀のアカデミズムの画家たちのお手本でした。
ドミニク・アングルはローマで彼の絵を手本にしており、
ルネッサンスと古代ギリシャ、ローマ美術の美術思想を研究していました。
現在でもブロンズィーノが描いた作品の美しさは、他を圧倒しており魅力的でもある。