ラファエロ【聖母の画家】の短くも華やかな生涯

ラファエロ・サンティオは、典型的なルネサンスの芸術家でした。

気品あふれる画家ラファエロの類まれない才能は、その優雅な身のこなしに似つかわしいものでした。

思いやりが深く、いつも取り巻きを従えていたので、ジョルジョ・ヴァザーリはその暮らしぶりを「画家というより王侯にふさわしい」と言っています。

年譜

1483年 中部イタリアの都市ウルビーノに生まれる

1494年 孤児となり、父の兄弟の後見を受ける

1500年 ペルージアに出てペルジーノの工房で働く

1504年 フィレンツェに移る

1508年 教皇ユリウス2世から依頼を受ける

1511年 アゴスティーノ・キージに最初の大プロジェクトを依頼される

1514年 「小椅子の聖母」を描く

1515年 古代ローマ遺跡管理監督官に任命される

1517年 37歳で死亡

 

【聖母の画家】ラファエロの誕生

500年も前のイタリアで、伝説の青年は今だに世界中の人々の中に華やかに生きている。

《ラファエロ・サンティオ》フィレンツェをそしてローマを舞台に、優美な聖母を描き続けた偉大なる天才。

「聖母の画家」ラファエロは1483年4月6日の聖金曜日にイタリア中部の小さな田舎町ウルビーノで生まれました。

父はウルビーノ公に仕えていた宮廷画家で詩人、母は裕福な商家の出だったそうです。

聡明な父親はラファエロにきちんとしたしつけをしたいと願い、乳母に赤ん坊を預けず、母親のもとで愛情豊かに育てさせました。

当時の風習からすれば、これはかなり革新的な教育方針だったらしく、父は早くから絵画に関心を持つ息子を、宮廷や仕事場に伴い、絵の手ほどきもしたと言います。

「若き日のラファエロ」 1506年ころ

この青年はおそらくラファエロの作と考えられる。

彼が21歳でフィレンツェに移ってまもない1506年ころの自画像であろうとされている

しかし絵に描いたような幸福も突然終わりを告げます。

ラファエロ8歳の時に母が、11歳の時に父までもがこの世を去ってしまうのです。

幼いラファエロに残されたのは、絵画への夢と柔らかな母の抱擁の記憶だけでした。

孤独になったラファエロは、叔父のはからいで画家ペルジーノに弟子入りすることになります。

 

ラファエロ花の都フィレンツェへ

21歳のラファエロがフィレンツェに到着したのが1504年の秋、完成したばかりのミケランジェロの「ダヴィデ像」がシニョーリア広場に設置され、広場に建つヴェッキオ宮殿では、ダ・ヴィンチとミケランジェロが、メディチ家の当主コジモ1世の命で壁画制作に着手していました。

目標とする天才画家たちの華々しい活躍・・・・

しかし、この芸術の都にあっては全く無名といってよいラファエロへのしごとの依頼は全くなく、田舎町で「偉大なるラファエロ」などとサインした自分の思い上がりに恥をかんじていました。

ラファエロの目と心にこの街に生きる人々の活気ある表情や、あちこちに残された先人たちの芸術作品が飛び込んでくるのでした。

マザッチオの臨場感あふれる壁画、レオナルドの「モナ・リザ」の素晴らしさに思わず息をのみ、巨匠たちの技術を、中でも構図に対する感性を自分のものにしようとラファエロは寝る間も惜しんで描き続けました。

ラファエロの名はやがて気品あふれる肖像画、優美な聖母を生み出す画家として評判が徐々に高まっていきます。

こうしてわずか4年で「草原の聖母」をはじめとする聖母像の傑作が次々と生み出されました。

 

ラファエロ「ローマ」で成功を得

1508年ラファエロの元に、ローマ教皇ユリウス2世から使いが届きヴァチカンの壁画制作の依頼がきます。

ラファエロが教皇の命を受けたその年、ミケランジェロもやはり教皇の依頼でローマに向かい、レオナルドもミラノへと旅立ちました。

25歳のラファエロも喜びと自信に胸ふくらませ、崇拝する巨匠たちの後を追うかのようにフィレンツェを後にするんのです。

教皇はローマの復興を夢見て、新しい都市作りと芸術に力を注いでいました。

道路は拡張され、次々に華やかな建物が出現していくその時25歳のラファエロがローマに足を踏み入れ、さっそく壁画制作に着手します。

教皇の執務室の一つ「署名の間」の壁画と天井画をたったの3年で完成させる。

これが大変な評判で若き画家は「ヘリオドスの間」も任されることになりました。

1513年ユリウス2世が亡くなり、レオ10世が教皇の座につきます。

「教皇レオ10世の肖像」 1518年 

教皇レオ10世も前任者のユリウス2世と同様、ラファエロの比類ない才能を認め、教皇居室の壁画を完成させただけでなく、彼を他の計画の責任者にも任じた。

このレオ10世と2人の枢機卿(うち1人は教皇と同じメディチ家の一員ジュリオ)の3人肖像画は、ラファエロの傑作の1つである。

1518年の作で、ラファエロの絶頂期の技量を示しており、テーブルのクロスと上に置かれた物の巧みな描写についてヴァザーリは「実物よりも真実に迫っている」と言っている。

新教皇はラファエロの優美な作風を好み「火災の間」の壁画と、サンピエトロ大聖堂の総指揮と古代ローマ美術品管理官を命じました。

今や時の人となったラファエロに叔父から一通の手紙が届き、帰郷してウルビーノの宮廷画家として働き地元の女性と結婚しては、という内容でした。

この親切な叔父の勧めにラファエロは「私はローマで大成功をおさめ、大きな収入を得ております。裕福な女性から球愛も多く、今の自分には帰郷して結婚することなど考えられません」と、返事を書き送るのです。

このころの頃のラファエロは、美しい邸宅を購入し、多くの召使に囲まれ何不自由ない贅沢な日々を過ごして、また気品あふれる優雅な物腰のラファエロを当時の人々は「画家というよりはまるで王侯のよう・・・・・」と噂しました。

枢機卿ビビアーナはそんな噂の天才に目をつけ、「姪の花婿に」と申し出ます。

大切なパトロンの申し出を断るわけにもいかず、ラファエロはしぶしぶ結婚を約束しますが、仕事の上でも、人生の上でも絶頂期にあった若き画家にとって、結婚という束縛は邪魔なだけでした。

繰り返し結婚を延期するうちに、形だけの婚約者は世を去ります。

「サン・シストの聖母」 1513年

この名高い祭壇画はラファエロの最も独創的な聖母像と言ってよく、何世紀ものあいだ無数の模写作品が出回った。

ピアチェンツャの聖シクストゥクス大聖堂のために制作されたもので、聖シクストゥスが左に位置し(ユリウス2世の姿で描かれている)、右には聖女バルバラがいる。

2人のあいだに聖母子が浮かびあがり、その神々しい姿は比類ない美しさである。

 

突然死を迎えるラファエロと残された恋人

1517年34歳のラファエロは、ナルボンヌ大聖堂の祭壇画にとりかかっていました。

このころ次々と殺到する依頼をさばくため、自分の工房を開き作品の仕上げを弟子たちに任せることが多かったようです。

そのため作品の質が落ちたと酷評され、名誉挽回に祭壇画「キリストの変容」制作に全力を注いでいたその時、1520年(4月6日37歳の誕生日)の春突然の高熱によってラファエロはあっけなくその生涯を閉じてしまいます。

「キリストの変容」 1517~20年

ラファエロ最後の傑作で、彼の死により未完で残されたが工房によって完成された。

ナルボンヌの大聖堂のための重要な制作依頼で、ラファエロは労苦を惜しまずヴァザーリのいう「至高の完成度」に達した。

2つの聖書挿話が描かれている。

上ではキリストがモーゼとエリヤのあいだに出現し、下では悪魔にとりつかれた少年が使徒たちのもとに連れてこられ、癒される場面が描かれている。

伝説によると、その臨終の画家の枕元に泣き崩れる一人の女性の姿があったといいます。

ラファエロの聖母像の面影を宿すこの女性こそが、画家が常にかたわらにおいた、ただ一人の恋人フォルナリーナだといわれます。

「ラ・フォルナリーナ」 1518年

世評によると、モデルは彼が熱愛した愛人である。

女性が身につける腕輪には、「ウルビーノのラファエロ」と銘が刻まれている。

X線調査によって、この官能的な肖像画の背景にはもとは風景画念入りに描かれていたことがわかった。

ラファエロが後から描き加えたギンバイカ、マルメロ、月下樹の葉枝が密にからまるさまは、この女性への彼の傾倒ぶりを象徴しているかもしれない。

「パン屋の娘」という意味名の通りこの娘の身分は高くなく、ついに正式な妻になることが出来なかったので愛する画家の最期を見ることも許されなかったのです。

(ラファエロのものという証明)

俗世に生きることに絶望したフォルナリーナは、残りの半生を修道院で送ったと伝えられています。

ラファエロの棺はローマ時代の名建設パンテオンに納められ隣に眠るのは、フォルナリーナではなくラファエロに愛されることのなかった婚約者の棺です。

死してなおも愛をつかめなかった天才ラファエロの死とともに、盛期ルネサンスの時代は幕を閉じ新しい時代へと移っていくのでした。

 

「ラファエロ」の宮廷風の芸術

ラファエロの死から30年ほどのちに刊行された「絵画対話」のなかで、美術批評家ルドヴィコ・ドルチェはこう書いています。

「ミケランジェロが優れているのは1つの手法だけ、つまり筋骨たくましい裸体を短縮法を巧みに使って躍動感のなかに描くことだけだ・・・・・・。だが、ラファエロはあらゆる人物像を、あるときは繊細に、またあるときは臆病に、あるいは活発にえがいた」

ヴァザーリも似たような意見でしたが、次の点を加えています。

ラファエロは、優れた画家には「自分の絵画をさまざまな遠近法を駆使した建物や風景、みごとな衣装・・・・・美しく処理された顔、そのほか無数の事物で飾る能力がなければならない」と考えていたのだと・・・・・

要するに、ラファエロの仕事の幅と多様性こそ、彼が天才たるゆえんだったといえます。

誰の目にも明らかなように、男性裸体を描かせてはミケランジェロが最高だったし、レオナルドは作品が未完であっても、眼識ある者なら彼の知的で壮大な理念を見いだすことができました。

ラファエロは絵画のすべてに精通していて、考えられるかぎりの人物たちを登場させ、「彼らに典型的な性格を完璧に表現した」。

ラファエロが理想的な「宮廷風」画家となるには、この微妙な技も関係しています。

バルダッサーレ・カスティリオーネは「廷巨論」のなかで、廷巨はあらゆる趣味に適度に通じるべきで、他を犠牲にして1つに秀でることがあってはならないと述べています。

ラファエロの芸術は、この考え方を絵画の面で表したといってよく、穏やかなスタイルながら絵画の全分野に熟達していた彼は、多くの教養人のあいだで人気を博すこととなったのです。

ラファエロは観察と抽出という骨の折れる作業を通して、自分のスタイルを形成していきました。

絶えず他人の作品を研究し、目にしたものを組み合わせて独自の様式で、インスピレーションを受けたモチーフをさまざまに変形させて自分のものにしています。

 

レオナルドの影響

ラファエロはレオナルドの影響で、輪郭線は柔らかく、構図も複雑になっていきます。

この時期の聖母子像には、小グループの人物の異なる動きをコンパクトな三角形のなかに収める、レオナルドの技量に対する艱難の念が読みとれます。

ですが、ラファエロがレオナルドから学んだ最も重要な教訓は、人物の感情を肉体全体を通して表現すべきという点でした。

「アテナイの学堂」 1509~11

堂々たる人物群が、このうえない壮大な建築空間のなかで静かな動きを見せる。

この壮健なフレスコ画は、衆目の一致するところ、ルネサンスの最高傑作の1つである。

今日親しまれている絵の名称は、17世紀になって初めてつけられたものである。

古代の偉大な哲学者たちが一堂に会した想像の場面(アリストテレスとプラトンが画面中央にいる)で、理性による真実の追求を象徴している。

フィレンツェ時代の成果は時を経ず、ヴァチカン宮殿の「署名の間」の壁画に現れ、そこであらゆるタイプの人間感情を描くラファエロの能力がみられます。

「アテネの学童」と「論議」では、ありとあらゆる年齢、タイプ、気質の人物たちが、無限ともいえる変化に富んだ身振りで動き反応しながら、調和のとれた場面に溶け込んでいます。

変化に富み、調和んとれた画面を生むには、念入りな準備作業が必用でした。

ラファエロはおびただしい数のデッサンをこなし、大作のためには、構図のあらゆる部分を前もってデッサンしました。

頭部と手の素描や衣服の細部の習作があり、人物像の習作はたいてい何度も描き直して構図を調整しています。

最後に実物大の下絵を描き、それを画布や板に押し当てて輪郭を形どっていったと思われます。

特に頭部や手の細部はさらに第2段階の、下絵を用いることもありました。

 

「ラファエロ」の持ち前の優美さ

こうした入念な作業を経ていたにもかかわらず、ラファエロの作品は当時の人々に、ごく自然に描かれたかのような印象を与えました。

「アテネの学童」と「論議」を見ても、それにいたる膨大な準備や立案段階を何も感じさせず、そこに足を踏み入れる者が目にするのは、気取らずふつうに本を読み、会話をする人物群たちでしょう。

このごく自然な達者な表現こそ、ラファエロ芸術のきわめつけの特徴だと考えられます。

そしてこの特徴が、先に述べた名人芸として、ラファエロにカスティリオーネの「廷巨論」の世界との大きな共通性をもたらしたのでした。

カスティリオーネによれば、廷巨は何事もごく自然にやってのけなければならず、優美さとはすべてをなにげなく見せるものでした。

ラファエロの描く教皇居室が見る者を驚かせたのは、単に人物表現だけではなく、建築背景とさまざまな特殊効果にも賞賛が寄せられてういました。

ヴァザーリは「聖ペテロの救出」を例にあげて、「ラファエロは影の効果、光のきらめくさま、うす闇のなかでおぼろげに燃える松明の明かりをじつに巧みに描いていて、ほかのいかなる画家にもまさるといえる」と書いています。

晩年の作品では、人物群がずっとたくましくなりますが、これはたぶんミケランジェロのシスティーナ礼拝堂壁画からの影響だと思われます。

ラファエロはいつものことながら、影響も徐々に吸収されたものであり、直接な模倣にはなっていません。

吸収過程をいちばんよく示すのが「キリストの変容」です。

レオナルド流の生き生きとした身振りと表情、ミケランジェロに似た堂々たる姿と形、古代彫刻を思わせる崇高なフォルムを見てとることができます。

しかし、これらの要素を組み合わせた結果はラファエロ独自のものであり、ほかに類のない物語を表す能力が示されています。

各人物はきわめて個性的であり、衣装、顔立ち、表情といった細部によってそれが特徴づけられています。

それぞれがまったく異なるしぐさで反応し、しかも完璧に自己の性格を保持していて、みごとに描きだされた多様性こそ、ラファエロ固有の天賦の才といえるでしょう。

 

まとめ

美術史上まれに見る大天才の画家、ラファエロはルネサンスが生んだ奇跡でした。

神のごとき大天才のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロに劣らず、彼らの優れた部分を吸収し最高の絵画を描き後世に多大な影響を与えています。

その優美で美しい人物と完璧な構図は、美術史上最高に名画とされています。

先輩画家たちをも凌駕する勢いのラファエロでしたが、惜しくも37歳という若さで世を去りました。

この画家が、あと30年生きていれば古代ギリシャの大画家のように、史上最高の大画家となっていたことは間違いありません。

・バロックのデッサン

・今、絵画に求められているものとは・・・

・「ティエポロ」 偉大な伝統に育まれた画家

・チャレンジし続ければ必ず結果を出せる!!!

・「マザッチオ」ルネサンスの始祖

・ラファエロの最高傑作「小椅子の聖母」

・「ルーベンス」バロック絵画の巨匠その栄光に満ちた生涯

・「ティッティアーノ」ヴェネツィア最大の画家

ABOUTこの記事をかいた人

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。